大判例

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大分地方裁判所 昭和48年(ワ)427号 判決

原告

柴田優二

柴田秀三

右両名法定代理人親権者父兼原告

柴田成要

同母兼原告

柴田タミ子

原告ら訴訟代理人弁護士

濱田英敏

松永保彦

美奈川成章

堤賢二郎

吉田徹二

吉田保徳

吉野正

春山九州男

東武志

葉山水樹

古瀬駿介

被告医療法人

鶴友会

右代表者理事

古賀二郎

被告

古賀二郎

被告ら訴訟代理人弁護士

河野浩

饗庭忠男

岩田広一

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは連帯して、原告柴田優二、同柴田秀三に対し、各金五〇〇万円、原告柴田成要、同柴田タミ子に対し、各金二五〇万円及び右各金員に対する昭和四八年九月二六日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告柴田優二(以下「原告優二」という。)及び同柴田秀三(以下「原告秀三」という。右両名を「原告兄弟」という。)は、それぞれ原告柴田成要(以下「原告成要」という。)を父、原告柴田タミ子(以下「原告タミ子」という。右両名を「原告父母」という。)を母として、昭和四六年八月九日に出生した双生児である。

被告医療法人鶴友会(以下「被告病院」という。)は、内科、外科、産婦人科の科目をもつ病院で、被告古賀二郎(以下「被告医師」という。)は同病院の医師である。〈以下、省略。〉

理由

一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二原告兄弟の保育経過

前項の争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると、以下のとおり認められる。

1  被告病院の保育・看護体制

被告医師は、九州医学専門学校卒業後、昭和一二年から昭和一五年一二月まで大分県立病院の産婦人科医師として勤務し、その後開業し、昭和三六年に被告病院を設立して、理事長に就任した。

被告病院は、昭和四〇年に肩書地に四階建の病院を建て、診療科目を産婦人科、内科、外科及び整形外科とし、常勤医師三名(被告医師を含む。)、非常勤医師三名、助産婦二名、看護婦三二、三名で診療を行つていたが、昭和四〇年当時、大分市鶴崎地区で唯一の産婦人科を有する病院であつたため、母子健康法の指定養育機関とされていた。

被告病院の建物は、全館冷暖房であり、二階北側中央部にある新生児室の温度は大体二四度に維持されており、右部屋内に三台の保育器(但し、二台は強制循環式閉鎖式保育器である。)が置かれていて、看護婦詰所から保育器内の新生児を観察できるようになつており、また、新生児室の照明についてもできるだけ太陽光線に近い蛍光灯の使用を指示して、チアノーゼの出現を判断するうえで支障がないように配慮されていた。

酸素の供給は、一階に酸素ボンベを置き、建築時に配管したパイプを通つて、二階の新生児室内に設置された受け口まで流れるようになつており、そこに流量計を取りつけ、さらにパイプを通つて保育器内に流れるようになつていて、毎分三リットルの酸素を流すと保育器内の酸素濃度が四〇パーセント、毎分一リットルを流すと二六パーセントになる旨記載した酸素流量濃度換算プレートが保育器に張り付けてある。

被告病院の助産婦である訴外佐藤チズ子は、昭和四〇年ころから被告病院に勤務し、新生児の保育について責任者となつていた者であり、他に主婦である正看護婦一名、准看護婦二名、見習看護婦一名が新生児の保育にあたつていたが、午後五時三〇分から午前八時三〇分までは一名の当直医師及び当直看護婦(但し、准看護婦、見習看護婦の場合は正看護婦と一緒に当直する。)が保育にあたり、被告医師も一週間または一〇日間に一度は当直していた。

2  出産状況

原告タミ子は、昭和一二年二月二日生まれの女性であり、昭和三六年六月三〇日原告成要と婚姻し、昭和三七年七月一八日長男勝儀を出産し、昭和四〇年八月一一日長女まゆみを出産したが、まゆみは、同年九月三日死亡してしまつた。

原告タミ子は、昭和四六年二月一五日性器出血があり、被告病院に来院し、被告医師の診察を受け、同月二五日再び診察を受けたところ、妊娠二ケ月で出産予定日は同年一〇月二五日と診断され、出血していることから切迫流産のおそれがあるということで同年三月五日まで入院した。

その後、同原告は、同年四月一三日、五月一五日、六月一四日及び七月一四日被告医師の診察を受け、同年八月九日午前六時半ころ自宅で破水したということで同日被告病院に入院した。

被告医師は、原告タミ子が妊娠八ケ月目(三〇週目)であつたが、破水し陣痛も始つていたので、点滴を行い陣痛を促進させ、右同日午後五時四五分に原告優二を、同日午後七時二五分に原告秀三をそれぞれ出産させた。

原告兄弟は、二卵性の双胎児であつたが、出産は順調で、原告秀三は逆子であつたが、特に問題なく出生した。

3  保育状況

(一)  原告優二

(1) 原告優二は、昭和四六年八月九日午後五時四五分に体重一三一〇グラム、体温三五度八分で出生し、よく泣いて手足を動かしていたが、被告医師は、同原告に軽いチアノーゼがあるのを発見し、軽度の呼吸及び循環障害があると判断して、直ちに温度三三度に保温し、湿度七〇パーセント以上に加湿した保育器(アトム―Ⅴ55)に収容し、酸素濃度を四〇パーセントにするつもりで酸素流量計により酸素を毎分三リットル投与した。

(2) 同月一〇日(生後二日目)

全身に浮腫が生じ、循環障害の症状があると判断され、また、時折泣く程度で元気もないため、毎分三リットルの酸素投与を継続し、かつ、絶食にしたうえ五パーセントのブドウ糖液にビタカンファ(強心剤)、テラプチク(強心と呼吸機能改善剤)、ビスコン(総合ビタミン剤)、ビタミンB6(これを以下「本件ブドウ糖液等」という。)を加えて、皮下注射を三時間おきに行い、また、午後七時にはチアノーゼが出現したため、ビタカンファを〇・五ミリリットル注射し、午後一〇時及び一一時にもチアノーゼがあつたので、テラプチク〇・三ミリリットルを注射した。

体温は低下をつづけ、午後には三三度四分まで下つたため保育器備え付けのヒーターで保育器内の温度を三三ないし三四度に上げて保温し、また、保育器内の湿度を七〇パーセント以上に維持するようにした。

(3) 同月一一日(生後三日目)

症状は前日より悪化し、吃逆が時々出るようになり、午後九時半ころになると顔面及び上半身にチアノーゼが出現し、体温も三三度二分まで低下し、呼吸も停止するようになつた。

被告医師は、毎分三リットルの酸素を保育器内に投与しながら、本件ブドウ糖液等の注射を二時間ごとに行い、呼吸停止に対しては、酸素マスクを使用して一〇〇パーセントの酸素を吸引させる等の人工呼吸を行い、かつ、ビタカンファを注射して対処し、その結果症状は改善してきた。

(4) 同月一二日(生後四日目)

被告医師は、症状がかなり改善してきたため、保育器内への酸素投与量を毎分一リットルに減らしたが、その際、まず毎分二リットルに減らして三〇分間様子をみて、症状に変化のないことを確認したうえで、毎分一リットルまで減らしたが、これにより保育器内の酸素濃度は二六パーセントになつたと判断した。

しかし、同原告の体温は、上昇せず、三三度四分であり、チアノーゼは消失したものの元気がないため、絶食を継続したうえ、五ミリリットルの輸血、五パーセントブドウ糖液の点滴及びビタカンファ〇・五ミリリットルの皮下注射を行つた。

(5) 同月一三日(生後五日目)

前日と大きな変化はなく、体温は三四度以上に上昇せず、一般状態は良くならないため、午後四時から、本件ブドウ糖液等を四時間おきに皮下注射し、午後六時から、母乳を四時間おきに三ミリリットルづつ鼻腔カテーテルによつて注入した。

(6) 同月一四日(生後六日目)

午前〇時ころから、弓状にけいれんし、午前一時には呼吸停止したため、被告医師は、酸素マスクを使用して、酸素投与を行い、また、けいれんを止めるため一〇パーセントフェノバール、ビタカンファを投与したところ、けいれんは止まつたが仮死状態になり、昼ころまで呼吸停止を繰り返していたが、徐々に呼吸も安定し、一般状態も改善してきたため、三時間ごとに三ミリリットルの母乳を鼻腔カテーテルから注入し、三時間ごとに行つていた本件ブドウ糖液等の注射も午後三時半に停止した。

(7) 同月一五日(生後七日目)

呼吸状況及び全身状態に特段の変化はなく、午前〇時に保育器への酸素投与量を毎分〇・八リットルに減らし、以後同年九月二五日(生後四八日目)まで継続し、また、二時間ごとに母乳四ミリリットルを鼻腔カテーテルから注入して栄養をとらせた。

なお、体温は三四度七分まで上つたが、体重は九九〇グラムしかなかつた。

(8) 同月一六日(生後八日目)及び一七日(生後九日目)

元気が良くなり、母乳及びプレミルクの量も同月一六日に八ミリリットル、一七日に一〇ミリリットルと増したが、体温は三三度五分前後にとどまつた。

(9) 同月一八日(生後一〇日目)

元気がなくなり、体温も三三度九分までしか上らなかつたが、保育器内への酸素投与を三〇分間中断して様子をみたが、チアノーゼが出現したため、再開した。

(10) 同月一九日(生後一一日目)から同月二四日(生後一六日目)

全身状態は徐々に良くなり、体動も活発になつてきて、同月一九日体重も一〇八〇グラムまで増えたが、体温は同月一九日に三四度二分、同月二〇日に三二度三分、同月二一日に三三度八分、同月二二日に三二度四分と低下し、その後三四度台まで回復したものの同月二二日から膿疱疹の症状を呈してきて、同月二四日に内科的治療を行つた。

なお、薬剤投与については、同月一九日にデュラポリン(タンパク同化ホルモン)を投与したほか特段の処置は行わず、また、母乳の量も徐々に増し、三時間ごとに一五ミリリットルを鼻腔カテーテルから注入するようになつたが、同月二四日に原告タミ子が退院したため、それ以後はプレミルクを注入するようになつた。

(11) 同月二五日(生後一七日目)

一般状態は良好で、体動も活発であり、体温も三四度六分であつたため、保育器への酸素投与を四〇分間停止して様子をみたところ、チアノーゼが出現したので、毎分〇・八リットルの酸素投与を再開し、また、膿疱疹について皮膚科処置を行つた。

(12) 同月二六日(生後一八日目)から九月六日(生後二九日目)

一般状態は良好で、八月三〇日にけいれん発作があつたものの、その後は良好な状態となり、体温も九月三日(生後二六日目)までは三四度台の日もあつたが、その後は三五度台となり、またプレミルクの量も徐々に増し、九月三日鼻腔カテーテルを除去して、プレミルクを直接哺乳させたが、同月五日再び鼻腔カテーテルによる注入に切り換えて、栄養を摂取させた結果、体重は同月三日に一一〇〇グラム、同月六日に一一七〇グラムと増えてきた。

(13) 九月七日(生後三〇日目)

体温は三五度台を維持し、体重も一二〇〇グラムに増えたので、保育器への酸素投与を五〇分間中断して様子をみたところ、チアノーゼが出現し、心音も亢進してきたため、毎分〇・八リットルの酸素投与を再開した。

(14) 九月八日(生後三一日目)から同月二〇日(生後四三日目)

一般状態は良好で変化はなく、体重は同月九日に一二四〇グラム、翌一〇日に一二九五グラム、同月一三日に一四四〇グラム、同月一五日に一三八〇グラム、翌一六日に一四〇〇グラム、一七日に一四五〇グラム、一八日に一四四〇グラム、同月二〇日に一四八〇グラムと増加し、体温も同月一五日に三四度六分になつたほかは、三五度以上になつた。

(15) 同月二一日(生後四四日目)

保育器内への酸素投与を三〇分間中断して様子をみたところ、チアノーゼが出現したため、毎分〇・八リットルの酸素投与を再開した。

(16) 同月二二日(生後四五日目)から同月二五日(生後四八日目)

一般状態は良好で、同月二五日に保育器内への酸素投与を停止し、様子をみたが、異常がないため酸素投与を打ち切つた。

(17) その後の経過

全身状態は良好で、体温も三五度以上を推移し、体重も同月二七日に一七三〇グラム、翌二八日に一七八五グラム、二九日に一七九〇グラム、一〇月一日に一八一〇グラム、翌二日に一八五〇グラム、三日に一八七〇グラム、同月五日に一八九〇グラム、同月七日に二〇四〇グラム、同月九日に二一〇〇グラムと順調に増加し、九月二七日(生後五〇日目)に鼻腔カテーテルによる哺乳をやめて、直接哺乳にし、一〇月三日(生後五六日目)には保育器から出して経過観察をし、翌四日保育器から出して保育を始めた。

一〇月一二日(生後六五日目)に体重が二三〇〇グラムとなり、異常もないため退院した。

(二)  原告秀三

(1) 原告秀三は、昭和四六年八月九日午後七時二五分に体重一四〇〇グラムで出生し、逆子であつたため両手足にチアノーゼが認められたものの、その後チアノーゼも消失し、全身紅潮してきて、元気良好となつたが、被告医師は、同原告が原告優二よりも状態が悪いと考え、ビタカンファ(強心剤)、テラプチク(強心と呼吸機能改善剤)を筋肉注射し、直ちに温度三三度に保温し、湿度七〇パーセント以上に加湿した保育器(アトム―V55)に収容して、酸素を毎分三リットル投与し、保育器内の酸素濃度を四〇パーセントにしたと判断した。

(2) 同月一〇日(生後二日目)

呼吸は浅く、呼吸数は一分間に七二回と多く、そのうえチアノーゼも出現し、体温も三三度四分以下に低下した。

被告医師は絶食を指示し、本件ブドウ糖液等を三時間ごとに皮下注射するとともに保温に務め、保育器内を三三ないし三四度に上げて保温し、湿度七〇パーセントに維持するように務めた。

(3) 同月一一日(生後三日目)

呼吸数は一分間に五三ないし六〇回でチアノーゼがあり、体温も三三度一分まで低下したため保温に務めるとともに、前日と同様に絶食にしたうえ、三時間ごとに本件ブドウ糖液等を注射し、保育器内に毎分三リットルの酸素投与を継続した。

(4) 同月一二日(生後四日目)

心音は微弱で不規則であり、時折呼吸停止があるうえ、体温は三二度八分まで低下した。

被告医師は、三時間ごとに本件ブドウ糖液等を注射し、保温に務めたが、酸素投与量は毎分一リットルに減らして、保育器内の酸素濃度を二六パーセントに下げたものの、呼吸停止に対しては酸素マスクを使用して一〇〇パーセントの酸素を投与して対処した。

(5) 同月一三日(生後五日目)

呼吸数は不整で、チアノーゼがあり、時折呼吸停止するうえ、体温は三二度五分まで低下した。

三時間ごとに本件ブドウ糖液等を注射するほか、午後六時からは三時間おきに母乳又はプレミルクを三ミリリットルずつ、鼻腔カテーテルから注入し、呼吸停止に対しては、酸素マスクを使用して、対処した。

(6) 同月一四日(生後六日目)

午前〇時から午前四時半ころまで、呼吸が浅く、チアノーゼがあり、時々無呼吸発作をおこして呼吸停止し、けいれんもおこして危険な状態が続いたが、午前四時半に〇・一パーセントの抱水クロラール一ミリリットルを投与して、けいれんを止めたところ、チアノーゼも消失し一般状態も良好となつたが、体温は三三度三分までしか上らなかつた。

午前九時三〇分から三時間ごとに本件ブドウ糖液等を注射するとともに母乳を鼻腔カテーテルによつて三時間おきに注入したところ、午後六時半ころから大声で泣くようになり、午後九時三〇分本件ブドウ糖液等の注射を停止した。

(7) 同月一五日(生後七日目)

体温は三三度六分しかなく、体重も一〇〇〇グラムに減つたが、全身状態は前日より良好となつたため、酸素投与量を毎分〇・八リットルに減らし、保育器内の酸素濃度を二五パーセントにしたと判断した。

(8) 同月一六日(生後八日目)、同月一七日(生後九日目)

全身状態は良好になり、体動も活発になつてきたが、体温は依然として三三度五分前後であつた。

(9) 同月一八日(生後一〇日目)

体温は三三度六ないし八分であつたが、元気が良かつたため保育器への酸素投与を三〇分間中断して、様子をみたところ、チアノーゼが出現したため毎分〇・八リットルの酸素投与を再開した。

(10) 同月一九日(生後一一日目)

体温は三三度八分以上には上らず、体重も一二七〇グラムであつた。

(11) 同月二〇日(生後一二日目)

体動が弱くなり、呼吸数は六八回で、チアノーゼが出現し、体温も三二度以上に上昇せず、全身に冷感があり、さらに膿疱疹の症状も呈してきた。

(12) 同月二一日(生後一三日目)から同月二五日(生後一七日目)

全身状態は不良で、体温も同月二一日が三三度八分で、翌二二日から二四日まで三二度、同月二五日に三三度三分まで上つたものの状態は悪く、鼻腔カテーテルによつて母乳の注入を行つていたが、同月二四日に原告タミ子が退院してしまつたため、それ以後はプレミルクを注入した。

(13) 同月二六日(生後一八日目)及び二七日(生後一九日目)

全身状態は改善し、体動もでてきて、体温も三四度台まで上るようになり、また瞳孔も被告医師が観察した限り正常であつた。

(14) 同月二八日(生後二〇日目)

体重は一一六〇グラムに減つたものの元気が良く、体温も三四度五分あり、膿疱疹も治るようになつてきたため保育器への酸素投与を三〇分間中断して様子をみたところ、チアノーゼが出現したので、毎分〇・八リットルの酸素投与を再開した。

(15) 同月二九日(生後二一日目)から九月七日(生後三〇日目)

一般状態は良好となり、体温も三四度五分以上となり、九月七日にはプレミルクの量を三〇ミリリットルまで増して鼻腔カテーテルから注入した結果、体重は九月三日に一二〇〇グラム、同月七日に一二九〇グラムと順調に増加したが、同月四日ころから膿瘍形成が始まり、これに対する処置を行わざるを得なかつた。

(16) 九月八日(生後三一日目)

体重は一三〇〇グラムまで増え、体温も三五度前後となつたため、保育器への酸素投与を三〇分間中断して様子をみたところ、チアノーゼが出現したので、毎分〇・八リットルの酸素投与を再開した。

(17) 同月九日(生後三二日目)から同月二〇日(生後四三日目)

一般状態は良好で、体温も三五度前後を推移し、体重も同月九日に一三六〇グラム、翌一〇日に一三八五グラム、同月一三日に一三六〇グラム、翌一四日に一四〇〇グラム、一五日に一四五〇グラム、一六日に一四九〇グラム、一七日に一五三〇グラム、一八日に一五四〇グラム、同月二〇日に一五四〇グラムと順調に増加し、また同月一四日に被告医師が瞳孔を検査したが、特に所見はなかつた。

(18) 同月二一日(生後四四日目)

体温は三五度四分前後で、体重は一五六〇グラムとなり、鼻腔カテーテルを使用してはいるもののプレミルクを三時間ごとに五五ミリリットル摂取し、元気が良いため、保育器への酸素投与を三〇分間中断して様子をみたところ、チアノーゼが出現したため毎分〇・八リットルの酸素投与を再開した。

(19) 同月二二日(生後四五日目)から同月二四日(生後四七日目)

同月二二日以降、鼻腔カテーテルを除去して、プレミルクを直接哺入させることにし、体重も同月二二日に一六〇〇グラム、翌二三日に一六一〇グラム、二四日に一六四〇グラムと着実に増加した。

(20) 同月二五日(生後四八日目)

体温は三六度前後で、体重も一六八〇グラムに増え、元気も良いため保育器への酸素投与を停止して様子をみたがチアノーゼも出現せず、異常もなかつたため、酸素投与を打ち切つた。

(21) その後の経過

体温は三六度台を推移し、体重も九月二六日に一七〇〇グラム、同月二八日に一八五〇グラム、翌二九日に一八七〇グラム、三〇日に一九一〇グラム、一〇月一日に一九四〇グラム、二日に一九七〇グラム、三日に一九九〇グラム、同月一二日に二三〇〇グラムと順調に増加し、また一〇月三日(生後五四日目)に保育器から出して観察し、翌四日から保育器から出して保育することにし、同月一二日(生後六五日目)に異常もないため退院した。

4  本症の発見経過

被告病院の助産婦である訴外塩月トミ子は昭和四六年一〇月二三日原告ら方を訪問し、原告兄弟を診たが、順調に成育しており、原告タミ子に通常の保育指導だけを行つて帰つた。

原告タミ子は昭和四七年二月二二日ころ、大分保健所で原告兄弟に定期検診を受けさせたところ、眼科医の受診を指示され、同月二四日眼科医である訴外蔭山昭二郎に診察してもらつたところ、原告兄第はともに両眼の網膜全体に増殖が及んで治療の余地のなくなつた増殖性網膜炎と診断された。

原告タミ子は、同年一一月一五日大分県立病院において、原告兄弟を同病院の眼科部長である訴外湊谷ジェームス寛治に診察したもらつたところ、同原告らの両眼は、網膜が白くなつて盛りあがり、網膜剥離を生じ、水晶体の後に増殖体があつたため、本症により網膜剥離を起こしたもので、治療するには手遅れであると診断された。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

三本症について〈省略〉

四被告医師の責任

1  医師は、人の生命及び身体の健康の維持管理を目的とする診療業務に専門的に従事する者であるから、患者の診療に関し、その当時確立している臨床医学の実践における水準(一般的医療水準)に基づいて、その具体的な病状を把握し、治療すべき注意義務を負つているが、具体的医療行為を実施するについては、人的物的にさまざまな診療環境を必要としており、実際にはこれらが不十分なことから生ずる制約も存在しており、また当該医師が高度の臨床医学の知見を有し、治療法を修得していることもあるから、これらを含めた当該医師のおかれた診療環境等の具体的諸事情を総合的に考慮し、当該措置又は不措置に社会的批難に値する注意義務違反があるか否かにより、過失の有無を決すべきものと解される。

そこで、本件当時(昭和四六年八月ないし一〇月)の本症に関する一般的医療水準及び被告医師の診療環境について検討するに、〈証拠〉によれば、以下のとおり認められる。

(一)  酸素管理

アメリカ合衆国では、昭和一五年ころから本症による失明者が多数でたが、昭和二六年にキャンベルが保育器内の酸素に原因があると提唱し、その後動物実験により立証され、昭和三二年アメリカ眼耳鼻科学会から酸素投与を制限する勧告が出され、昭和三二年ころ本症の流行的発生は終息した。

ところで、我が国では、アメリカ合衆国に比較して保育技術の発達、普及が遅れ、特に強制循環式閉鎖式保育器の導入が遅かつたため、本症に罹患しやすい極小未熟児(世界保健機関WHOの基準によれば、出生児体重二五〇〇グラム以下を「未熟児」といい、一般に出生児体重一五〇〇グラム以下を「極小未熟児」という。)の死亡率が高く、本症が問題化されていなかつたが、昭和四〇年ころから、保育技術の向上に伴い極小未熟児の生存率も高くなつてきたため、本症による失明が顕在化してきて、昭和四六、七年ころ本症の発症がピークとなつた。

我が国における本症の研究は、昭和三〇年前後に文献(産婦人科の世界「早産児、未熟児」三谷茂著昭和二九年発行、「未熟児」厚生省児童局監修昭和三二年一二月一〇日印刷)に紹介されたが、簡単な説明だけで特に関心をよぶものではなく、その後も目立つた研究報告はなかつた。

植村恭夫は、昭和三九年日本眼科学会において、本症を取り上げ、我が国においても本症の瘢痕期の症状を有する子供がいることを発表し、それ以来、本格的に研究が開始されたが、本件当時においても眼科学会及び小児科学会は、本症と酸素療法について確立した見解を示すことができなかつた。

本症の発生に酸素が影響することは判明していたが、未熟児は肺胞の虚脱や拡張不全のため肺胞換気が障害されていることがあり、また、肺血管が収縮していて肺血流量が減少し、動脈血酸素分圧が低下することがあり、このため特発性呼吸症候群又は無酸素症等により死亡及び脳神経障害等の危険があつて、酸素療法が必要不可欠な場合が多く、本症の発症を予防しつつ酸素投与を行うという非常に困難な酸素管理を強いられることになる。

その際に、酸素管理の基準となるものは、本件当時確立されておらず、環境酸素濃度を四〇パーセント以下にし、チアノーゼ等の異常がない限りできるだけ環境酸素濃度を下げるように酸素管理すべきだとする見解が文献(眼科一〇巻一〇号昭和四三年一〇月発行「未熟児網膜症の光凝固による治療の可能性について」永田誠著、未熟児の保育と栄養昭和三四年一一月一日発行、未熟児疾患の病理および治療昭和三五年三月一〇日発行、今日の治療指針昭和三五年、今日の小児治療指針昭和四五年一一月一五日出版、看護婦教本昭和四一年二月一〇日改訂、看護技術昭和四五年五月号、小児看護学昭和四三年三月二五日第一版、日本産科婦人科学会雑誌一六巻八号昭和三九年八月「未熟児の哺育」川上博著、産婦人科治療一七巻五号昭和四三年一一月「新生児哺育の問題点」平田美穂外一名著、新生児学入門昭和四九年四月一日発行安達寿夫著)に多く紹介されていた。

しかし、環境酸素濃度が四〇パーセント以下でも、また酸素投与を全く行わなくとも本症の発症をみる例があり、そのことが文献(昭和四二年八月二〇日発行医療「未熟児網膜症に関する研究」植村恭夫著)に紹介されており、本件当時において、本症を完全に予防しうる酸素管理の方法はなかつた。

そして、本症の発症を予防しうる環境酸素濃度の研究がなされたが、未熟児は肺の成育も未熟なため環境酸素濃度ではなく網膜の動脈血酸素分圧を問題にすべきであると指摘され、臍動脈血酸素分圧の測定または網膜の動脈血酸素分圧をもつとも反映する側頭動脈血酸素分圧の測定が行われ、本症との関連について研究された。

なお、酸素療法について、環境酸素濃度ではなく、動脈血酸素分圧を測定し、八〇ないし一五〇mmHgに保つべきであるとする見解が、昭和四三年五月当時文献(産婦人科治療「新生児特発性呼吸障害とその治療」大浦敏明外四名著)に発表されていたが、右見解は従来の環境酸素濃度による本症予防法に再検討を迫る先駆的なものであり、また機械的人工呼吸を行う場合には、呼吸管理の示標となるのは動脈血酸素分圧、動脈血炭酸ガス分圧及び水素指数(PH)などいわゆる血液の酸塩基平衝で、それがそれぞれPaO2100mmHg,PCO240mmHg,PH7.4付近に保たれているかどうかが示標となり、長期の呼吸管理では水分や血清電解質などを検査して補正する必要があるとする見解(産婦人科治療一八巻一号「人工呼吸法の実際」西山友博外二名)が昭和四四年ごろ報告されていたが、右見解は本症の予防を目的としているわけではなく、さらにアメリカ小児科学会は昭和四六年に動脈血酸素分圧を六〇ないし八〇mmHgの正常範囲に保ち、一〇〇mmHg以上にすると本症が発症するから、これを越えないように注意するよう勧告していたが、右勧告内容が我が国において広く知れわたつていたものではない。

ところで、動脈血酸素分圧の測定には、採血に伴う感染の危険、未熟児の細い動脈から採血し、止血する困難性から、頻回の測定が難しく、また本症の発生を防止しうる動脈血酸素分圧の値が確定しておらず、かつ、動脈血酸素分圧を示標とした酸素管理の方法が広く知れわたつていないこともあり、昭和四七、八年ころでも酸素管理を動脈血酸素分圧の値によつて行つている病院は少なかつた。

また、眼底検査の所見により酸素管理を行うことは、植村恭夫が第二〇回日本臨床眼科学会で最初に提唱し、その内容が昭和四二年二月発行の「臨床眼科」(第二一巻二号)に「未熟児網膜症の臨床的研究」と題する講演集として掲載され、また、同年八月発行の「医療」(第二一巻八号)に「未熟児網膜症に関する研究」と題する論文として掲載されたが、その内容は、酸素療法及びその中止、中止後の管理をすべて眼底所見を参考に行えば、本症を予防し、また、発症した場合にもその進行を防止できるというものである。

しかし、永田誠は、酸素管理を網膜血管径の観察によつて行うことは難しく、それを行うためには毎日眼底検査を行う必要があるとし、治療法としての光凝固法を紹介しており(昭和四五年一一月発行「臨床眼科」第二四巻一一号、「未熟児網膜症」と題する論文)、また、昭和五二年二月発行の「小児医学」に掲載された松山道郎の「未熟網膜症」と題する論文によれば、酸素管理を未熟児に対して行う場合の具体的な示標は、動脈血酸素分圧を参考にする以外によい手段はなく、眼底検査の所見はもつぱら治療法としての光凝固及び冷凍凝固の実施時期を判断するために用いられるとし、眼底所見により酸素管理を行うことを勧めておらず、植村恭夫もその後眼底所見による酸素管理の方法が有効なものでない旨の証言を東京地方裁判所で行つている。

さらに、閉鎖式保育器を使用する場合、酸素管理は酸素流量計に頼つてはならず、酸素分析器を用いて監視すべきとする見解(「未熟児」医学シンポジウム一六輯)が昭和三五年四月当時発表されており、また、本症を防止するため一日数回、保育器内の酸素濃度を測定すべきであるとする見解(産婦人科治療第三巻二号「未熟児保育器、人工蘇生器、搾乳器」大坪佑二著)が昭和三六年八月当時発表されていた。

ところで、大分県下で最も医療水準の高い診療を行い、ほとんどの診療科目を有する大分県立病院において、本件当時、酸素濃度計はなく、昭和五〇年に購入するまで酸素流量計によつて酸素管理を行つており、本症の発症を予防するために動脈血酸素分圧又は眼底検査の所見を示標として酸素管理することも行つていなかつた。

(二)  眼底検査

前述のとおり、植村恭夫らは昭和四二年に眼底検査の所見に基づき、酸素管理を行うべきであると提唱したが、その後天理よろず相談病院の眼科医師永田誠らが昭和四三年に本症に対して光凝固法施行症例を報告し、その実施時期についてオーエンスⅢ期が最適であり、それを判定するために倒像検眼鏡による定期的眼底検査の必要性を提唱したことから、本症の治療のために未熟児の眼底検査が注目され、これを行う医師がでてきた。

しかし、光凝固法の右報告があつた当時、右療法に対する反響はほとんどなく、そのため眼底検査が臨床において行われることはほとんどなく、本症の専門家でさえ、未熟児の眼底検査を網膜の周辺部がよく見える倒像検眼鏡で行い始めたのは昭和四〇年以降であり、九州地区で最も本症の研究に熱心であつた大島健司でさえ倒像検眼鏡を用いて行つたのは昭和四三、四年であり、本件当時、九州地区で未熟児の眼底検査を行つていたのは、九州大学附属病院、国立福岡中央病院以外にはほとんどなく、大分県立病院では昭和四八年一〇月ころから、小児科から紹介された未熟児について眼科医師が行い始めた。

ところで、未熟児に対する眼底検査には多くの困難が伴ない、特に、未熟児は散瞳筋の発育が不十分で散瞳薬の点眼によつても網膜周辺まで十分に観察しうるほど散瞳しない例や、早胎児では水晶体血管被膜、硝子体動脈遺残などの胎生児の遺残物があり、中間透光体が濁つていて(ヘイジー・メディア)、眼底の観察が不可能又は困難なことが多く、また未熟児への感染予防や体力消耗に対する配慮が必要であつて、そのため、全国に五〇〇〇人足らずしかいない眼科医が、本症以外の数多くの眼科疾患の治療に忙殺されている状況下で、新生児の内未熟児の出生する割合が低く、かつ、本症の発症が稀であるため、眼科疾患の中では非常に数少い本症のために、煩瑣な眼底検査を行うように求めることは本件当時困難な状況であつた。

そのうえ、本症の症状は、様々であり、その分類は困難であつて、本件当時は、本症が段階的経過をたどるものと考えられており、これを前提として、オーエンスの分類またはこれに修正を加えた各専門家の独自の分類によつていたのであるが、昭和四六、七年ころから激症型(Ⅱ型または中間型)の症例が報告され始め、本症の診断、治療に関し、医師、病院間に混乱が生じるようになり、眼底所見を的確に判断しえなくなつた。

(三)  治療法

薬物療法については、副腎皮質ホルモン等の投与により本症の治療効果があつた症例報告(臨床眼科一八巻二号「水晶体後方線維増殖症の治療に就て」)が昭和三九年ころより発表されていたが、本件当時その有効性には疑問がもたれており、かつ、その副作用に危惧するむきが多く、また現在でもその有効性は確定しておらず、否定する見解が多い。

光凝固法については、天理よろず相談病院眼科の永田誠が、昭和四二年三月二四日(同年一月三日出生児)及び同年五月一一日(同年二月二五日出生児)に、網膜周辺部の血管新生の盛んな部分に対し、全身麻酔下で光凝固を行い、頓挫的に病勢の中断することを経験したとして、それを臨床眼科学会に発表し、その内容は昭和四三年四月に医学界の専門誌である「臨床眼科」(二二巻四号)に「未熟児網膜症の光凝固による治療」と題する論文で紹介された。

その後、永田誠は、昭和四四年六月及び同年七月に四例の進行性の本症に光凝固法による治療を行い、いずれもその病勢の進行を停止させることができたとして、それを臨床眼科学会で報告し、本症は適切な対応と実施時期をあやまらずに光凝固を加えることによりほとんど確実に治癒しうるとした。

右報告内容は、昭和四五年五月発行の「臨床眼科」二四巻五号に「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅱ―四症例の追加ならびに光凝固療法適用時期の重要性に関する考察」という題名で掲載された。

そして、永田誠は、昭和四五年一一月発行の臨床眼科二四巻一一号掲載の「未熟児網膜症」と題する論文において、昭和四一年八月から昭和四五年六月までに光凝固法を施行した一二例(一二例中には前記六例を含む。)について、光凝固法の実施が遅れた二例を除いて、一〇例に効果を挙げたことを報告し、光凝固法は現在最も確実な治療法ということができるとしている。

また、九州大学医学部眼科学教室の大島健司らは、昭和四五年一月一日から同年一二月三一日までの間に二三例の患児に光凝固法による治療を行い、オーエンスⅣ期の初め又はⅡ期の終りの病変に著効を奏したと第四一回九州眼科学会において報告し、その内容は昭和四六年九月発行の「日本眼科紀要」に「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」と題する講演録として掲載された。

なお、昭和四五年七月発行の「小児科」(第一一巻七号)に掲載された「未熟児網膜症の診断と治療」と題する論文において、植村恭夫は、オーエンスⅡ期までに薬物療法、光凝固法を施行し、それ以上の進行をくいとめる方針がとられており、オーエンスⅢ期以降に進行した場合には右治療法は無効であるという見解を発表しているが、光凝固法を施行した具体的な症例についての報告はしていない。

そこで、まず、光凝固法による治療の奏効機序について、永田誠は昭和四三年四月の最初の施行症例の報告において、Eales氏病が光凝固の応用によつて、出血と増殖性変化の悪循環を断ち切つて完全に治癒したことから、本症についてもその比較的早期に眼底周辺部の異常網膜組織と過剰な新生血管を光凝固で破壊することは、Eales氏病の光凝固による治療と類同の病勢の頓挫を本症にもたらし得る可能性があると簡単な説明しかしておらず、昭和四五年五月及び一一月の報告(第一〇号証)においては、奏効機序について全くふれておらず、また訴外大島健司らの昭和四六年九月の症例報告及び植村恭夫の昭和四五年七月の論文においても、全くふれられていない。

すなわち、光凝固法は、本件当時、いかなるメカニズムで本症に効果を生ずるかが不明だつたのであり、その結果、永田誠は、昭和四三年四月当時、凝固部位についてなんら理由を附さずに、網膜周辺部の限局性滲出性病変と新生血管に光凝固術を加えたと発表し、昭和四五年一一月当時には、血管帯と無血管帯との境界領域を中心に、その周辺の無血管帯及び中心側の血管増殖部を二ないし三列に凝固したと発表し、昭和四七年三月当時には境界領域の凝固と無血管帯の散発的凝固がよいと発表(臨床眼科二六巻三号「未熟児網膜症の光凝固による治療(Ⅲ)永田誠外二名著)して、増殖血管の凝固をやめているが、その理由を全く明らかにしておらず、そして昭和五一年一一月になつて、漸く境界領域だけを凝固しても本症が治癒する理由について考察した論文(日本眼科学会雑誌八〇巻一一号、宿題報告(Ⅲ)未熟児網膜症に関する諸問題「未熟児網膜症光凝固治療の適応と限界」永田誠外九名)を発表するに至る。

なお、昭和五〇年に発表された厚生省の昭和四九年度本症研究班が発表した診断・治療基準においても、凝固部位を境界領域及び無血管帯とした理由は必ずしも明らかとされず、また、昭和五〇年六月二八日訴外菅謙治外一名が発表した「未熟児網膜症の凝固方法」と題する研究成果(日本眼科紀要二六巻六号)でも、凝固部位について、経験からして、新生血管の凝固が無効で、かえつて悪化する症例があり、境界領域及び無血管帯への凝固が適当であるとしているに過ぎない。

そして、現在でも、前記三3で認定したとおり、Ⅰ型については、境界領域を中心にして凝固し、無血管帯に散発的凝固を加えるとし、Ⅱ型については、無血管帯を含めて広く凝固するとしているが、その理由は必ずしも明らかでない。

次に、光凝固の実施時期について、本件当時は本症の専門家であつても、激症型(Ⅱ型又は中間型)といわれる急激に進行する症例があることに気づいていた者は少なく、Ⅰ型についてのみ光凝固法を実施していたのであるが、本症は自然治癒することの多い疾病であるため、光凝固により発育途上にある網膜に人工瘢痕を永久に残してまで治療し、その結果、将来視力障害等の危険を生じさせる事態の妥当性という観点から、本症の活動期病変がどこまで進行したら将来視力障害を生じるほどの瘢痕を残すであろうかという研究成果との兼合いのもとで、光凝固の実施時期が考えられていた。

永田誠は、昭和四三年四月の症例報告では、オーエンスⅢ期の初めが最適であるといい、昭和四五年五月の症例報告では、オーエンスⅢ期に入つて網膜剥離を起こす直前が最適だとしている。

その後、厚生省の昭和四九年度本症研究班は、診断・治療基準を作つたが、実施時期について、Ⅰ型においては硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期(3期)とし、Ⅱ型においては無血管帯領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起り始め、後極部血管の迂曲怒張が増強する徴候が見えた時期であるとしているが、馬嶋昭生外四名は、第二九回日本臨床眼科学会において、Ⅰ型の光凝固実施時期について報告(臨床眼科三〇巻一号、昭和五一年一月発行「未熟児網膜症に対する片眼凝固例の臨床経過について」)し、その中で、最小限の人工的瘢痕にとどめ、しかも視機能障害を残さない凝固時期、凝固方法を確立し、かつ、視機能障害を起さない自然寛解、自然瘢痕の限界は活動期のどの段階かを知るために、両眼とも活動3期(前記三1認定の本症研究班が昭和五八年に発表したⅠ型3期とほぼ同じ。)の中期(具体的には、新生血管が間葉系細胞を伴つて境界線のほとんど全域で硝子体内に増殖し出血が見られる時期)であつて、左右差のない一二例について、片眼だけを光凝固したところ、他眼が自然寛解したのは一〇例(八三・三パーセント)で、いずれも軽度の瘢痕しか残していなかつたことを報告し、光凝固の実施時期を活動期3期の中期とすべきだとしている。

そして、Ⅰ型の実施時期については、現在も前記三3認定のとおり、見解が分れ、凝固による人工瘢痕の影響を完全に把握できるまで結論がでない状況である。

Ⅱ型についての実施時期については、Ⅱ型自体の実態が本件当時全く判明しておらず、また、現在でもその実態は必ずしも明らかになつていないが、急激に進行するためⅡ型であると確定的に診断できれば直ちに凝固すべきであると考えられている。

しかし、Ⅱ型であることを確定診断することは、Ⅱ型の症例の多くが、在胎期間が短かく、出生体重が一〇〇〇グラム以下の極小未熟児に多く、そのため中間透光体の濁りがひどく眼底検査が困難であり、Ⅱ型の初期像の所見を見ることは難しく、研究は困難をきわめており、森実秀子が昭和五一年一月に発表した「未熟児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像及び臨床経過について」と題する論文(日本眼科学会雑誌八〇巻一号)が最初にⅡ型の眼底像を詳細に報告したものであり、この論文によつて、厚生省の本症研究班は昭和五八年に診断基準を改めている。

次に、光凝固法の実施方法について、永田誠は昭和四三年四月当時には全身麻酔を行つて施行したと報告していたが、昭和四五年一一月当時では、二パーセントのキシロカインを直針で一ミリリットル球後注射するだけで施行可能であると報告している。

そして、その後、全く麻酔を行わずに光凝固を行うようになつてきている。

ところで、光凝固法は、永田誠が昭和四三年四月に文献に発表した当時は、必ずしも大きな反響を呼ぶものではなく、本症の研究者がこれに注目して実験的に行い始めたに過ぎず、そのうえ当初から右治療法が周辺網膜を凝固破壊するもので、成育中の網膜への影響が危惧される点を指摘され、その副作用又は合併症の有無、程度が問題とされており、また、昭和四七年三月に永田誠が光凝固法による治療結果を総括した論文を発表したところ、右当時、発見されてきた激症型(Ⅱ型)についての施行症例が報告されていないとして、右療法の実施時期、凝固部位等の治療方法の内容だけでなく、右療法自体の有効性についてさえ疑問の余地があると指摘された。

九州地区では、九州大学医学部眼科学教室の大島健司(現在は福岡大学医学部教授である。)が、右大学附属病院において、昭和四五年から光凝固法による治療を行つていたが、同人は昭和四七年ころ激症型(Ⅱ型)に対する対応が分らず、右療法によつては激症型の治療はできないものと考えていた。

大分県下では、本件当時、光凝固法により、本症の治療を行う医師はおらず、大分赤十字病院が昭和四九年に、大分県立病院が昭和五〇年にそれぞれ器械を購入し、右療法を行うようになつた。

(四)  被告医師の経歴等

被告医師は、昭和九年に九州医学専門学校を卒業し、昭和一二年から昭和一五年まで大分県立病院の産婦人科医師として勤務し、戦時中に同病院の小児科医師として勤務したが、その後大連市で内科、小児科の診療を行い、戦後大分市内で開業し、昭和三六年から被告病院の産婦人科及び小児科(主に新生児)を担当している。

同被告は、昭和四〇年に強制循環式閉鎖式保育器二台を購入後、大分県立病院でその使用状況、使用方法等を見学し、文献等で研究して、その使用方法を学び、昭和四〇年から本件当時までの間に出生児体重一五〇〇グラム以下の五名の極小未熟児(原告兄弟を除く。)を保育したが、いずれも生存させ得なかつた。

ところで、同被告は、未熟児の保育・看護について、第一に生命維持を、第二に酸欠による脳障害の発生防止を考え、一見すると元気に出生したものと思われる未熟児でも急速に悪化し、陥没呼吸や呼吸停止におちいることをおそれて、出生後直ちに酸素投与を行つている保育器内に収容し、経過をみながら徐々に酸素投与量を減らしていくことが必要であると考えており、本症の予防については環境酸素濃度を四〇パーセント以下に維持し、チアノーゼを示標として酸素投与の有無、量を決定していくほかに方法はないと考えていた。

以上のとおり認められ〈る。〉

2 右認定事実に前記二認定事実を加えて被告医師の診療上の過失の有無について検討する。

(一)  酸素管理

原告らは、極小未熟児を保育する医師には本症の発症を予防するために酸素投与を慎重に行うべき注意義務があるにもかかわらず、被告医師はこれに反し、中心性チアノーゼ、動脈血酸素分圧又は眼底検査の所見をそれぞれ示標とした酸素管理はもちろんのこと、酸素濃度計を使用して保育器内の環境酸素濃度を測定することさえせずに漫然と生後四八日目まで酸素投与を行つた過失があると主張する。

そこで検討するに、極小未熟児は特発性呼吸症候群又は無酸素症等による死亡若しくは脳神経障害等の危険があり、酸素療法が不可欠の治療法とされる場合があるため、酸素が引金になつて本症が発症するからといつて、無条件に酸素投与を制限することはできない。

ところで、本件当時の一般的医療水準をみるに、本症の発症を予防しうる環境酸素濃度の値は確定しておらず、また、動脈血酸素分圧を示標とした酸素管理は、本症の発症を予防しうる値が確定していなかつたばかりでなく、その測定に伴う困難から頻回に行うことができず、本件当時、臨床において広く普及していたとはいえないから、確立された酸素管理の方法であるとは認められず、さらに眼底所見を示標とした酸素管理は、眼底検査自体が未熟児に伴う種々の困難性から、本症の研究者でさえ倒像検眼鏡による検査を始めたのが昭和四〇年代であり、治療のために必要と提唱された後でも、その治療法自体が広く反響を呼ぶものでなかつたため、直ちに普及したわけではなく、そのうえ、眼底所見を示標とする酸素管理自体が昭和四五年に永田誠によつてその困難性を指摘され、また、昭和五二年発行の文献には、そのような方法の記載がなく、その提唱者である植村恭夫自身がその後右酸素管理の方法の有効性を否定しているのであつて、本件当時、右の酸素管理の方法が確立されていたとは認められない。

したがつて、本症の発症を予防しつつ、かつ、未熟児の生命維持及び脳障害等の防止をはかる酸素療法は、本件当時の一般的医療水準からして著しく困難な課題であつたというべきであり、酸素療法の要否、限界に関しては、新生児の状態、症状を総合考慮した医師の裁量に委ねられていたものと解される。

なお、本件当時環境酸素濃度を四〇パーセント以下にすれば、本症の発症を予防しうるとする見解も存したが、右数値にはなんら科学的根拠が明らかにされておらず、また、本件当時においても環境酸素濃度が四〇パーセント以下で保育された未熟児にも本症が発症した例が文献に紹介されており、右見解は異常がない限り、できるだけ酸素投与を制限することが本症の発症を予防するためには望ましいといつた程度のものであり、右見解に従つて酸素管理を行つたからといつて、過失の有無が左右されるものではない。

そこで、被告医師が原告兄弟に対して行つた酸素療法が、同原告らの状態、症状からして、本件当時医師に許容されていた裁量の範囲を逸脱していたものか否かについて判断する。

〈証拠〉によれば、新生児は、出生とともに経胎盤呼吸から肺呼吸に変るため、その呼吸管理は重要であり、そのために生後六〇秒の時点で、心拍数、呼吸、筋トーマス、反射興奮性及び皮膚の色の五項目について観察し、アプガール・スコア(Apgar Score)によつて、その評価を行い、右スコアが一〇点に達するまで観察した後は、Silverman's retraction Scoreをつけ、さらに呼吸数の推移を記録し、ミラー(Miller)曲線を作図して、特発性呼吸障害症候群を予期したり、その原因疾患である肺拡張不全又は肺硝子膜症の発見に役立てるべきだとする見解が、本件当時以前から文献(日本産科婦人科学会雑誌一九巻五号昭和四二年五月発行「新生児初期診断」、産婦人科治療一六巻五号昭和四三年五月発行「主なる新生児疾患の発見法について」、産婦人科治療一六巻五号昭和四三年五月発行「新生児特発性呼吸障害とその治療」、産婦人科治療一七巻五号昭和四三年一一月発行「新生児の診断法」、産婦人科治療一九巻二号昭和四四年八月発行「新生児の観察法」)に紹介されており、また、チアノーゼについて、限局性のいわゆる生理的チアノーゼはほとんど総ての新生児に認められる症状であるから、チアノーゼの有無、程度を観察する場合には、末梢性チアノーゼか、中心性チアノーゼか、また中心性チアノーゼであるとして、それが生理的なものか、病的なものかを判断するだけの観察を要し、病的なチアノーゼであれば、その原因疾患の診断をするために、呼吸運動の様相、身体運動、一〇〇パーセント酸素を吸わせた場合の反応などに注目し、血液ガス、胸部エックス線像、心電図などの検査を行つて、原因疾患を推定し、それに対する治療を行うべきだとする見解が本件当時以前に文献(産婦人科治療二二巻五号昭和四六年五月発行「新生児のチアノーゼとその治療」)に紹介されており、さらに新生児の状態を仔細に観察し、記録するためにチェックリストを作り、それに記録しておくことが必要であることも本件当時以前から文献(昭和四五年一月一日発行小児看護学、産婦人科治療一七巻五号昭和四三年一一月発行「新生児の診断法」)で指摘されていたことが認められる。

そして、〈証拠〉によれば、原告兄弟のアプガール・スコアーやSilverman's retraction Scoreの記載はもちろんのこと、定時に計測したと思われる心拍数、呼吸数やチアノーゼの発現部位、程度についてさえ、診療録、看護記録等に全く記載がなされていないことが認められるのであるが、それ故に直ちに被告医師の酸素管理に過失があるとは断定しえないのであり、以下において、前記二3認定事実を前提にして、原告兄弟に対してなされた酸素療法について検討する。

(1) 原告優二

原告優二は、出生後直ちに保育器に収容され、生後三日目まで毎分三リットルの、生後四日目から六日目まで毎分一リットルの、その後生後四八日目まで毎分〇・八リットルの酸素投与を受けたのであるが、同原告は、在胎三〇週目に体重一三一〇グラムで生まれた極小未熟児であり、出生当時泣いていながら軽度ではあるもののチアノーゼがあつたため被告医師は呼吸、循環障害があると判断して、毎分三リットルの酸素を保育器に投与したのであり、生後二日目には酸素療法を行つているにもかかわらず全身に浮腫を生じ、元気を喪失し、生後三日目には、顔面及び上半身にチアノーゼを生じ、呼吸停止まで起こすようになり、生後四、五日目は小康状態を保つたものの生後六日目の午前〇時ころから弓状にけいれんし、呼吸停止まで起こしたのであつて、生後六日目までの同原告の全身及び呼吸状態は最悪で生命の危険が差し迫つていたのである。

また、右の間でも、被告医師は、生後四日目には保育器内への酸素投与を毎分三リットルから毎分一リットルに減らし、それにより保育器内の環境酸素濃度を、酸素流量濃度換算プレートの記載によれば、四〇パーセントから、二六パーセントに低下せしめたことになるのである。

さらに、生後七日目以降についても、同原告の体温は低いもので、かつ、体重は生後七日目に九九〇グラムまで低下していたのであるが、右同日には保育器への酸素投与を毎分〇・八リットルまで減らし、そのうえ、生後一〇日目、一七日目、三〇日目及び四四日目にそれぞれ酸素投与を中断し、同原告の全身状態を観察し、チアノーゼの出現を認めたため酸素投与を継続したのである。

(2) 原告秀三

原告秀三は、出産後直ちに保育器に収容され、生後三日目まで毎分三リットルの、生後四日目から六日目まで毎分一リットルの、その後生後四八日目まで毎分〇・八リットルの酸素投与を受けたのであるが、同原告は在胎三〇週目に体重一四〇〇グラムで生まれた極小未熟児であり、出生直後は逆子であつたために両手足にチアノーゼがあつたものの、その後チアノーゼも消失し、全身紅潮してきて、元気良好となつてきたが、被告医師は、未熟児であつたため毎分三リットルの酸素を保育器に投与し、生後二日目に酸素療法を行つているにもかかわらず、呼吸が浅く、呼吸数は一分間に七二回と多く、チアノーゼも出現し、生後三日目には呼吸数が一分間に五三ないし六〇回になつたもののチアノーゼはあり、生後四日目には心音が微弱で不規則となり、時折呼吸停止するようになり、生後五日目も右状態が続き、生後六日目になると呼吸が浅く、時々無呼吸発作を起こして、チアノーゼが消失せず、そのうえけいれんもあり、非常に危険な状態に陥つたのであつて、生後六日目までの同原告の全身及び呼吸状態は出生後悪くなる一方であり、生命の危険が差し迫つていた時期である。

また右の間でも、被告医師は生後四日目に保育器への酸素投与を毎分三リットルから毎分一リットルに減らし、それにより保育器内の環境酸素濃度を、酸素流量濃度換算プレートの記載によれば、四〇パーセントから二六パーセントに下げたことになり、呼吸停止に対しては酸素マスクを使用して一〇〇パーセントの酸素投与によつて対処しているのである。

さらに、生後七日目以降についても、同原告の体温は上昇せず、生後一二日目には三二度になり、体重も一〇〇〇グラムまで低下していたのであるが、生後七日目には保育器への酸素投与を毎分〇・八リットルまで減らし、そのうえ、生後一〇日目、二〇日目、三一日目及び四四日目にそれぞれ酸素投与を中断し、同原告の状態をを観察し、チアノーゼの出現を認めたため酸素投与を継続したのである。

もつとも、前記のとおり、原告兄弟の診療録、看護記録等には、一日数回にわたつて測定したと思われる呼吸数、心拍数の記録及びチアノーゼの出現部位等の記載はなく、かつ、これを認める証拠もないため、同原告らの出生直後からの全身及び呼吸状態を仔細に認定することはできず、被告医師が中心性チアノーゼを示標とした酸素管理を行つていたか否かも判然としないが、〈証拠〉によれば、新生児にチアノーゼが出現した場合に、チアノーゼが消失するまで環境酸素濃度を上げ、次第にそれを下げて軽いチアノーゼが出現する濃度を探し、その後はこの濃度に四分の一を加えた値の濃度とする見解が昭和四六年五月当時文献(産婦人科治療二二巻五号「新生児異常症状の発見法」)に紹介されており、また、チアノーゼは、黄疸、多血症又は貧血状態にある新生児では判定し難く、そのうえ無呼吸発作の起こりそうな場合にはチアノーゼが消失しても酸素投与を止めることはできず、さらに、本件当時、多くの医師がチアノーゼを示標にして酸素管理を行つていたことが認められるのであつて、被告医師が同原告らの中心性チアノーゼ等の仔細な観察結果を示標にして酸素管理を行つていたか否かが不明であるからといつて、その故に同被告の酸素管理に関する過失を肯認することはできない。

また、被告医師は、酸素濃度計を使用して保育器内の環境酸素濃度を測定しておらず、かつ、〈証拠〉によれば、昭和三五、六年ころから、保育器内の酸素濃度は酸素分析器を用いて、一日数回測定する必要があるという見解が文献(未熟児疾患の病理および治療、昭和三五年三月一〇日発行、産婦人科治療三巻二号昭和三六年八月発行「未熟児保育器、人工蘇生器、搾乳器」)に紹介されており、そして九州大学附属病院小児科で使用している保育器は、その使用説明書に記載されている酸素流量と酸素濃度との換算関係が、実際に濃度計で測定した値と最高一七パーセントも過剰あるいは過小濃度になつている旨の報告が、昭和四五年五月発行の文献(看護技術「保育器を用いた酸素治療に関する一考察」)に掲載されていることが認められるが、本件当時、本症の発症を予防しうる環境酸素濃度の値は確立されておらず、被告医師は、できるだけ酸素投与を制限する方針で、原告兄弟の全身及び呼吸状態に応じて、酸素流量計によつて酸素管理を行つていたものであり、しかも、大分県で本件当時最も高い医療水準の診療を行つていたと思われる大分県立病院小児科においてさえ、酸素濃度計を使用していなかつたのであつて、本症の発症に関して、被告医師の酸素管理に右の点からして過失があるとはいい難いのである。

すなわち、被告医師は、原告兄弟のチアノーゼの有無を主眼に、その全身及び呼吸状態を示標として、できるだけ酸素投与を制限する方針で酸素管理を行つたのであり、同被告が行つた酸素管理の方法は、本件当時の一般医療水準からして、医師に許容されていた裁量の範囲内であるというべきであり、同被告に酸素管理に関して過失を認めることはできない。

(二)  全身管理義務

原告らは、被告医師が原告兄弟の保育に際して、保温及び感染予防に努めなかつたため、同原告らの体温が低下し、また、膿疱疹が発症し、その結果、同原告らは自力で体温を維持し、、病源体と闘うために多量の酸素消費を強いられ、呼吸機能の酷使によつて呼吸障害を生じ、そのため適切な看護・保育がなされていれば不要であつたはずの酸素投与を受けざるを得なくなつたことにより、本症に罹患したと主張する。

そこで、まず保温について検討するに〈証拠〉によれば、新生児は、体重が成人の五パーセントしかないにもかかわらず、体表面積は一五パーセントもあり、体重当りの体表面積は成人の三倍もあつて、しかも、出生時体重一五〇〇グラム以下の未熟児は三〇〇〇グラムの新生児よりも一・二倍以上体重当りの体表面積が広く、かつ、皮下脂肪層が乏しいため熱伝導による体温喪失が大きく、出生後、低体温に陥いることが多いこと、未熟児の体温が三四度以下になると呼吸障害や感染を起こしやすくなり、新生児寒冷傷害を生じることもあり、三二度以下になると生命を維持しえなくなるため未熟児保育においては保温が重要であるが、他方、環境温度が高温になれば、未熟児は速やかに死に至る危険があり、保育器内の床を三二・五度以上にすると高体温症の危険があり、英国では保育器のマットの五センチメートル上の温度を三五度以下にすべきであるとする安全規準が設けられているうえ、環境温度を上げて皮膚の血流変化により体温を維持した場合、直腸温度と環境温度との差が二ないし三度以上になる可能性があり、そうなると最小基礎代謝以上に熱産出を必要とし、酸素消費の増大を招くのであり、安静時の個体がエネルギー消費を最小に保つ環境温度(中性環境温度neutral environmental temperature)を保持する必要があると本件当時はいわれていて、未熟児ではその温度が三二ないし三四度とされていたのであり、昭和四八年以降、一五〇〇グラム以下の未熟児については体温より高い三四ないし三五度の環境温度にして暖める方法が普及するようになつた(産科と婦人科「未熟児の保育」昭和四八年四月発行)が、本件当時には右方法が臨床医の間で行われていなかつたこと、湿度についても環境温度との関係で重要であり、一二〇〇ないし一五〇〇グラムの未熟児の場合、生後一日目は湿度九〇パーセント、温度三二度の保育器内に収容し、生後二日目以降は湿度を七〇パーセントとすべきであるとする見解が本件当時以前から文献(日本産科婦人科学会雑誌一六巻八号昭和三九年八月発行「未熟児の哺育」)に紹介されており、かなり多湿の状況におくことが必要とされていたこと、新生児は皮膚温で三六度以上が適温であり、低体温に陥つた場合には速やかに適正な体温に回復させるべきで、そのためには保育器の設定温度を高めたり、フードを被せて皮膚からの体温喪失を防止したり、保育器内に湯たんぽを入れたり、さらに、バスタオルを温めて被せたりする必要があることが認められる。

ところで、原告優二の体温は、出生後低下し、生後二日目に三三度四分、同三日目に三三度二分、同四日目に三三度四分と上昇の気ざしをみせず、生後七日目になつて三四度七分まで上つたが、翌八日目から再び三三度台に低下し、生後一一日目に三四度二分まで上つたものの翌一二日目には三二度三分まで低下し、三四度台になつたのは生後一六日目以降であり、三五度台で安定しはじめたのは生後二六日目以後であつた。

また原告秀三の体温は、生後二日目から三三度四分に低下し、翌三日目に三三度一分、四日目に三二度八分、五日目に三二度五分と低下を続け、生後六日目に三三度三分となつたものの、生後七日目以降も三三度五分前後で、生後一二日目、同一四ないし一六日目まで再び三二度に低下し、全身に冷感が生じ、生後一八日目になつて、やっと三四度台まで上るようになり、生後三一日目から三五度台になつた。

以上の事実を総合して考慮すれば、原告兄弟の体温は出生後低下し始め、原告優二において、生後一六日目まで、原告秀三において生後一八日目まで三四度以下という低体温が続いたのであり、被告医師が原告兄弟の体温を速やかに適温である三六度以上にする特段の看護を行つたとする証拠はなく、同被告に保温に対する配慮を欠いた点があつたのではないかとの疑念を抱く余地もないではないかのようであるが、同被告は、本件当時、一般的医療水準として確立していた中性環境温度及び適正湿度の保育器に同原告らを収容して看護していたのであり、また、保育器内の温度を高温にすることによる危険性が本件当時、強くいわれていたことを考えると、同被告に、保温に関して社会的非難に値する過失があつたとはいい難い。

次に、感染予防について検討するに、〈証拠〉によれば、成熟児の感染率が二・四パーセントであるのに対し、未熟児は一四パーセントであり、未熟児は非常に感染されやすく、特に、夏期は汗疹、膿疱疹の発症が多発しやすいため冷房の必要があり、また、膿疱疹はブドウ球菌又はレンサ球菌の感染から生ずるが、最近では、ほとんどが黄色ブドウ球菌によるものであり、七、八月の高温多湿の状況が膿疱疹の発病を誘発し、他人からの感染によつて皮膚面に化濃性病変を生ずるが、清潔にすれば自然治癒し、特に治療法としては抗生物質を投与するか、水疱を切開して内容液を吸引し、被膜や痂皮(かさぶた)を取り、外用薬を貼布すればよいとされていることが認められる。

そして、前記二3認定事実に、〈証拠〉を総合すると、原告兄弟は出生後、温度三二度以上で、かつ、湿度七〇パーセント以上の保育器内で保育され、原告優二は生後一四日目(八月二二日)に膿疱疹の症状を呈し、生後一六日目(八月二四日)に内科的治療を、生後一七日目(八月二五日)に皮膚科的処置をうけており、原告秀三は生後一二日目(八月二〇日)に膿疱疹の症状を呈し、生後二〇日目(八月二八日)ころから治り始めたが、生後二七日目(九月四日)ころから膿瘍形成が始まり、その治療をうけたが、原告優二には左足首、右大腿部、腹部に、また原告秀三には右側臀部にそれぞれ傷痕があることが認められる。

以上の事実を総合して考慮すれば、原告兄弟は極小未熟児として出生し、その保育は困難を極め、特に低体温の状態が続き、夏期であるにもかかわらず保育器内を高温多湿にしていたため膿疱疹を発症させるブドウ球菌等が繁殖しやすい状況におかれ、かつ、同原告らの生命維持のため人工呼吸、投薬等により、被告医師、助産婦及び看護婦が同原告らに接触する機会が多かつたために右病源菌が保育器内に侵入してしまい、同原告らが罹患してしまつたものと考えられ、この点について、同被告に感染予防に対する注意を怠るなんらかの行為があつたことは、これを推認せざるを得ないものの、ともかくも同原告らの生命維持のために緊急を要する事態に迫まられていたのであり、感染予防のために完璧を期し得なかつたとしてもやむをえないとも考えられないではないし、また、膿疱疹は重大な疾患ではなく比較的軽微な皮膚疾患であることを考慮すると、原告ら主張のように原告兄弟が膿疱疹に罹患したことから直ちに、病源菌と闘うために多量の酸素消費を強いられたものとは考え難く、その点の証拠はないから、本症の罹患との関係において、同被告に感染予防に関する過失があつたとは認め難い。

なお、原告らは、被告医師が分娩時まで原告兄弟が双胎児であることに気ずかず、そのために原告秀三の娩出が遅れ、仮死状態寸前で生まれたと主張するが、原告秀三は、原告優二の出生後一時間四〇分経過してから出生しており、また、原告秀三は逆子であつたため、出生時に両手足にチアノーゼがあつたものの間もなく消失し、全身紅潮してきたのであつて、原告ら主張のように原告秀三の出産に手落ちがあつたとは認められず、また、原告兄弟の全身管理に関して、他になんらかの過失があつたと認めるに足りる証拠もない。

したがつて、被告医師が行つた原告兄弟の全身管理、特に、保温及び感染予防に関して、同被告に本症の罹患との関係において、非難すべき注意義務違反を認めることはできない。

(三)  本症に対する治療義務

原告らは、被告医師に本症の発症を早期に発見するために定期的眼底検査を行い、本症に罹患したことを発見したならば症状の経過を綿密に観察し、症状に応じて薬物療法、光凝固法の各治療を行うべき注意義務があるにもかかわらず、同被告は、本症に対する研究を怠り、右注意義務に反し、原告兄弟が本症に罹患したことに気づかず、なんらの処置も行わなかつた過失があると主張する。

そこで、検討するに、本症の発症を早期に発見するために眼底検査が必要であるとしても、それは本症に対する治療法が確立されていることが前提であるから、まず、本症の治療法について考察する。

本症の治療法として、副腎皮質ホルモン等の薬物療法が、本件当時、一部の本症研究者の間で行われていて、その成功症例も報告されていたが、その効果には強い疑念がもたれていたし、また、その副作用を危惧するむきも多く、本件当時確立された治療法となつていたとまでは認められず、そのうえ、現在ではその効果を否定する見解が多数をしめるに至つている。

次に、光凝固法による治療については、前示のとおり、本件当時、天理よろず相談病院眼科の永田誠らによつて、一二例の施行症例が、また、九州大学医学部眼科学教室の大島健司らによつて二三例の施行症例が、それぞれ報告され、いずれも専門誌に掲載されていたが、他の研究者による症例報告がなされていたことを認める証拠はなく、本症が自然寛解傾向の強い疾患で、かつ、右療法が人工瘢痕を作つて本症の進行を阻止するもので、成長過程にある網膜の破壊を必然的に伴う治療法であるために、本症の病態、病勢の正確な把握、治療適応の判断、治療時期の選択、治療方法(凝固箇所、程度等)に関する課題の解決が不可欠な治療法と考えられるが、右課題について、本症の研究者間で検討がなされ、本件当時一応の基準が確立されるまでに至つていたと認める証拠はなく、むしろ、本症のうち激症型(Ⅱ型)に対しては、光凝固法によつて治療し得ないとする見解が本件当時以降に発表されており、また、本症のうちのⅠ型についてさえ、本症の病態が必ずしも明確となつていなかつたため、本症の活動期病変がどの程度まで進行するに至れば自然寛解しても視力障害を生じるような瘢痕を遺す結果を招くかということも把捉されておらず、そのため右療法の実施時期も明らかになつていたとはいえず、かつ、右療法の奏効機序が明らかでないため、その凝固部位、程度も明らかになつておらず、右療法を開発した永田誠自身が、本件当時は手探り状態で右療法を実施していた有様であつて、右のような課題が一応解決し、その基準が確定し、その知見が普及していたなどとは到底認められない。

また、右療法を最初に受けた未熟児が漸く四歳に達していたに過ぎない本件当時において、右療法の効果及び副作用を確定することはできず、そのうえ、右療法に伴う麻酔、網膜への光の照射等の医療侵襲が虚弱な未熟児の網膜や全身状態にいかなる影響を与えるのかという点についても、本件当時、解明されていたと認めるに足りる証拠はないのである。

したがつて、光凝固法による本症の治療は、本件当時には、実施症例が未だ多くは報告されていなかつたし、本症の専門家の間でも右療法に関して診断、治療の一応の基準といえるものさえ樹立されておらず、そのうえ、その効果及び副作用も明らかになつていたものとはいえないから、本症の治療法として、本件当時確立したものということはできない。

そこで、本症の治療に関して、被告医師の過失の有無についてみるに、前記二3認定のとおり、同被告は原告兄弟に対し本症の治療を全く行わなかつたが、本件当時において薬物療法及び光凝固法による治療法が確立されていたとは認め得ないのであるし、また、他に効果的な治療法が存した証拠もなく、さらに、同被告が、本症に関し、本件当時の一般的医療水準を超える知見までは有していなかつたことを考慮すれば、同被告が本症の治療行為を行わなかつたことについて、その責任を問うことはできない。

なお、右説示したとおり、被告医師に治療義務がなかつた以上、治療を前提とした眼底検査には別段意味がなく、同被告には眼底検査を行う注意義務もなかつたというべきである。

したがつて、被告医師には本症の治療に関して注意義務の違反はないものというべきである。

(四)  転医指示説明義務

原告らは、被告医師が本症の治療を行う特別な設備及び技能を有していなかつたのであれば、原告父母に対し、本症の内容、治療法等を説明し、治療行為が実施可能な他の医療機関へ転医することを指示すべきであり、また、仮に光凝固法が本件当時確立したものでないとしても、その治療法が有力な見解として存し、大規模病院で実施されているのであるから、右指示説明すべき注意義務はあるのであり、それにもかかわらず同被告は右注意義務に反し指示説明を行わなかつた過失があると主張する。

そこで検討するに、転医の指示説明義務は医師が高度の専門家として、自らその当時の医療水準に照らして適切な医療行為をなすべき義務を補完するものであるから、その当時の医療水準に照らして未だ確立していない治療法を受けさせるために転医を勧め、そのための配慮をなすべき義務までは負うものではないと解するのが相当である。

もつとも、専門医の間において新治療法が研究され普及し確立していても、一般臨床医の間にその治療法が普及し確立するまでにはかなりの日時を要するから、医師が診療を行うに際して、患者に専門外の領域に属する重大な疾患が発生する危険を高度の蓋然性をもつて具体的に予見しうる場合には、一般臨床医の間に当該治療法が有効なものとして確立していなくとも、専門医による診療を受ける機会を与えるために転医の指示説明義務が課される場合を否定できない。

これを本件についてみるに、本件当時、前記説示のとおり、薬物療法及び光凝固法が本症の専門家の間でも確立した治療法になつていたと認められないのであるから、被告医師には原告兄弟に対し、右各治療法を受けさせるために転医の指示説明義務を負わせることはできない。

したがつて、被告医師には、本症の発症、治療法等について、指示説明する義務はなく、その点に関する注意義務違反はないものというべきである。

よつて、被告医師に原告ら主張の過失を認めることはできない。

3  被告医師の過失を認め得ない以上、被告病院が被告医師の使用者として原告らの損害につき責任を負うべきいわれはないので、この点に関する原告らの主張も理由がない。

五以上の次第であるからその余の点を判断するまでもなく、原告らの被告らに対する本訴請求は失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官江口寛志 裁判官森 真二 裁判官西田育代司)

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